マッシードリーム号

ミッドウェー海戦

投稿日時:2012/06/04(月) 12:56

ちょうど70年前の昭和17年(1942)6月4日太平洋戦争の分水嶺とも言うべき戦い、ミッドウェー海戦が行われました。この戦いの後、日本が敗戦に向かっていったのは言うまでもない。決定的な敗北の中、強烈な輝きを放ち奮闘したのが、第2航空戦隊司令官山口多聞少将である。空母4隻中3隻を失い、唯一1隻で米軍空母ヨークタウンを撃破したのである。第一航空艦隊司令長官南雲忠一が指揮を執っていたが、その判断が間違ったのが敗因と言われている。「兵は拙速を尊ぶ」孫子以来語り継がれている戦いの極意である。教科書通りマニュアル通りにならない事のほうが現実でも多い。緊急事態に模範解答は必要ないのである。その時の状況判断・決断は瞬時にリーダーが行わなければならない。一瞬の判断ミス決断の遅れが命取りになるからだ。山口は意見具申したが受け入れられず、同胞の空母が燃え盛り爆発しているのをどんな気持ちで見ていたのであろう。その後指揮権が移譲され孤軍奮闘したが、最後には米軍の波状攻撃にあい基幹空母「飛龍」も撃破される。そして最期は船と運命をともにしたのである。もちろんその前に総員退去命令を出し、加来艦長と二人以外は退去した後である。艦と運命をともにすることが美徳とされた時代であり指揮官としての生き様としては共感できる。しかしそうやって能力のある人間を失っていった事が敗因でもあろう。ただ部下と別れるときに部下が号泣して惜しでくれるそこまでの信頼関係を築くことが戦う集団の肝であろう。決して戦争を肯定するつもりはない。しかし戦う集団の指導者として戦争時代の指揮官から学ぶべき点は多い。(引用・参考文献 歴史街道6月号)

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