リレー日記 2016/11
今、想う。
投稿日時:2016/11/26(土) 22:01
皆が様々な思いで明日の最終戦を迎えようとしている。何が何でも最終戦にしたい。昨年は最終戦で負けてしまい、6年生の有終の美をかざることはできなかった。今年は何としても有終の美を飾ってみせる。
私は普通の主将の方々とは違った形で主将となったわけだが、公式戦を主将として迎えられることは本当に光栄なことだと考えている。主将に就任して以来、時間があれば監督、今田先生と練習メニューや試合の反省を行っていた。勉強そっちのけと言っても過言ではない日々だった。
正直、辛かった。上手くいくことの方が少ないし、自分の主将として、プレイヤーとしての無力さ、そしてラグビーの戦術に関していかに無知であるかを痛感させられる日々だった。自分以外のことで時間を取られることも多いし、なぜか頭を下げることも多かった。(日々の服務をきちんとしましょう。)
だが、そんな日々も終止符が打たれようとしている。今振り返ってみると、体育教官室に暇があったら通っていた。同室の同期には病院よりも体育教官室にいる時間のほうが長いといわれるほどだった。監督のいらっしゃる指導官室は他の学生も頻繁に出入りするのでなかなか長居することはできないが、体育教官室は少ないため、話をたくさんすることが難しかった。
体育教官室ではいつも広瀬先生と今田先生が話を聞いてくださった。広瀬先生は部員の体調や申請などにも細かく気を配ってくださった。また、マッサージもしてくださいました笑。
34期の山崎先生以来のマッサージだったらしいのですが、ノウハウをわかっておられて一流並のテクニックをお持ちでした笑。
今田先生は今年、就任されたが部員一人一人のことを大変理解してくださっている。気さくに声掛けしてくださり、ラグビーの基本をところどころ理解していない私に根気よく教えてくださって、また部員についての悩みも、時には愚痴も、すべて聞いてくださった。
ラグビーに関しも一つ一つが理論的で、納得した形でメニューやゲームメイクを行えている。また、リカバリーに関してもこと細かくアドバイスしてくださり、合宿は例年よりも怪我が少なく終わることができた。ハーフタイムのアドバイスも的確で、今田先生が就任する際に部員であって本当に良かったと思う。
現段階で入れ替え戦の可能性を残していることは主将として責任を感じている。しかし、明日勝てば準優勝。昨年よりも悪い結果を出すわけにはいかないし、優勝こそ叶わなかったが、今までの練習が正しかったと少しでも思える結果を残したい。
最後に、森監督や今田先生、広瀬先生だけでなく毎週来てくださる益子宗大コーチ、益子先生、久米村コーチ、妻鳥先生をはじめ練習に来てくださったOBの先生方、中谷元監督、今年の夏に亡くなった青戸先生、そして試合に見に来てくれる友人、見にこれなくても激励のlineをくれる友人、いつも支えてくれる家族に感謝しながら明日はプレーしたい。
今のメンバーでできる最高のパフォーマンスをして、最高の一日にしよう。
私は普通の主将の方々とは違った形で主将となったわけだが、公式戦を主将として迎えられることは本当に光栄なことだと考えている。主将に就任して以来、時間があれば監督、今田先生と練習メニューや試合の反省を行っていた。勉強そっちのけと言っても過言ではない日々だった。
正直、辛かった。上手くいくことの方が少ないし、自分の主将として、プレイヤーとしての無力さ、そしてラグビーの戦術に関していかに無知であるかを痛感させられる日々だった。自分以外のことで時間を取られることも多いし、なぜか頭を下げることも多かった。(日々の服務をきちんとしましょう。)
だが、そんな日々も終止符が打たれようとしている。今振り返ってみると、体育教官室に暇があったら通っていた。同室の同期には病院よりも体育教官室にいる時間のほうが長いといわれるほどだった。監督のいらっしゃる指導官室は他の学生も頻繁に出入りするのでなかなか長居することはできないが、体育教官室は少ないため、話をたくさんすることが難しかった。
体育教官室ではいつも広瀬先生と今田先生が話を聞いてくださった。広瀬先生は部員の体調や申請などにも細かく気を配ってくださった。また、マッサージもしてくださいました笑。
34期の山崎先生以来のマッサージだったらしいのですが、ノウハウをわかっておられて一流並のテクニックをお持ちでした笑。
今田先生は今年、就任されたが部員一人一人のことを大変理解してくださっている。気さくに声掛けしてくださり、ラグビーの基本をところどころ理解していない私に根気よく教えてくださって、また部員についての悩みも、時には愚痴も、すべて聞いてくださった。
ラグビーに関しも一つ一つが理論的で、納得した形でメニューやゲームメイクを行えている。また、リカバリーに関してもこと細かくアドバイスしてくださり、合宿は例年よりも怪我が少なく終わることができた。ハーフタイムのアドバイスも的確で、今田先生が就任する際に部員であって本当に良かったと思う。
現段階で入れ替え戦の可能性を残していることは主将として責任を感じている。しかし、明日勝てば準優勝。昨年よりも悪い結果を出すわけにはいかないし、優勝こそ叶わなかったが、今までの練習が正しかったと少しでも思える結果を残したい。
最後に、森監督や今田先生、広瀬先生だけでなく毎週来てくださる益子宗大コーチ、益子先生、久米村コーチ、妻鳥先生をはじめ練習に来てくださったOBの先生方、中谷元監督、今年の夏に亡くなった青戸先生、そして試合に見に来てくれる友人、見にこれなくても激励のlineをくれる友人、いつも支えてくれる家族に感謝しながら明日はプレーしたい。
今のメンバーでできる最高のパフォーマンスをして、最高の一日にしよう。
甚謝
投稿日時:2016/11/24(木) 01:21
引退が目の前に迫ってきた今、文字にして残しておきたいものがあります。6年生のこの時期になったら最後に書こうと決めていた内容です。いつもはヘラヘラしている僕ですが、今回は今まで周りには見せなかった面も含めて書き記しておきます。ちょっと暑苦しい内容になっているところはご容赦ください。
一年生のはじめ、水泳部に入部した。部活決定直前までラグビー部と悩んだのだが、ラグビー部は休みがない、厳しい、といった声も多く、最終的に経験のある水泳を選んだ。
ところが、水泳部に決まった後も隣の部屋の先輩はラグビーの勧誘をしに来た。本当に水泳部で良かったのか、ラグビー部の雰囲気の方が好きなんじゃないのかと自問自答していた自分は、ラグビー部の勧誘の必死さに圧倒され、水泳を1週間もやることなく転部していた。
こうして僕のラグビー人生は始まったわけであるが、ラグビーはそんなに容易いスポーツではなかった。タックルバッグは臭いし、自分より大きな先輩には簡単に当たり負けてしまう。常に体のどこかは痛い状態だった。毎日泥だらけになったジャージを手洗いしないと洗濯機にすらかけられない。さらに雑用その他仕事の大半は一年生に任せられることになる。
同期は自分を含めて3人だけだったため、一人当たりの仕事量は必然的に増える。押し付け合いにもなり、喧嘩ばかりした。正直、同期のことが嫌で仕方なかった。同期で飯に行くことなど滅多になかった。部活以外ではほとんど話さないし、むしろ水泳部の同期の方が仲が良く、なぜ転部なんてしまったんだろうかと後悔した。練習も毎日ハードで、休みも全然ない。自分を誘った先輩を恨んだりもした。毎日、いつこの部活を辞めてやろうか、そんなことばかり考えていた。
2年生の中頃、ずっと傷んでいる肩を見てもらいに病院へ行った。どこかが痛い、というのはラグビーにとっては当たり前で、「どうせ打撲か何かだろう、湿布を処方してもらおう」くらいに考えていた。
医師から言われたのは右肩関節反復性脱臼だった。名前の通り、繰り返し肩の脱臼をしてしまうものである。自分は関節がもともと緩いらしい。体が柔らかいのは良いことだが、関節が緩いと可動域が多い分、動いてはいけない角度まで動くことも多く、ラグビーなど激しいコンタクトスポーツをしていると怪我が多くなるそうだ。実際肩の骨が欠けており、例えるならゴルフボール(上腕骨頭)を乗せているティー(肩甲骨側)の外縁が欠けているような感じだ。肩の不安定感があり、ぶつけるたび激痛が走っていたのはこのせいだった。
このままラグビーをしたいなら手術しないと厳しいよ、親ともじっくり話して決断してね、と言われた。正直どうしたらいいかわからなかった。ただラグビーにも少しずつ慣れてきた時のことでもあり、とりあえず手術はした方が良さそうだ、そう思った。
肩の手術は完治に時間がかかり、ラグビーの試合に出られるレベルまで戻すのには1年弱かかる。2年生の終わりに手術を行ったため、3年生の間は怪我人としてサポートに徹することとなった。練習などをグラウンドの外から見ることも多く、実際にプレーしていては気付けないようなことにも目が行き、そこをああしたらいいのに、と考えたりも出来る様になった。それまではラグビーをこなすことで精一杯だった自分にとって非常に新鮮だった。ラグビーってこんなに面白いんだ、自分が復帰したらあんなプレーがしたいな、なんてことをよく考えていた。
3年生の終わり、およそ1年ぶりに出た試合が追いコン試合だった。思い描いている様なプレーはできなかったが、久々に試合ができてとても楽しかった。
これから本格的に頑張ろうと思っていた。
練習も全部できる様になり、タックルの練習も始めた頃のことだった。
「左肩も痛い」
右肩の手術をする際、左肩も少し痛むことは伝えていた。ただ右に比べれば損傷も少ない上、両肩を同時に手術することはできないこともあって、様子を見ていた。しかし、手術後は右肩をかばい、左肩メインでタックルしていたこともあったのだろう、復帰から1ヶ月もしない時点で左肩は右肩以上の損傷となっていた。
4年生になる時、
「ラグビーをやめなさい」
医師からそう言われた。
これから思う存分ラグビーできる、そう思った矢先だった。
ここで左肩を手術するとまた一年間ラグビーができなくなる。非常に残酷だった。この頃には安静にしていても肩は痛むようになり、タックルに行くとほぼ100%の確率で肩が外れるようになっていた。まるでそこにあると分かっていながら剣山を踏みに行くような感覚だ。
ある日の練習の途中、グラウンドの外で指導してくださっている益子先生の元へ行き、膝に手をつき泣いた。
「もう限界です」
悔しかった。同期は試合に出て頑張っているというのに、自分はラグビーをすることすらままならない。情けなくて仕方なかった。
それから二日間ほど練習には行かず、体育教官室で益子先生と話し続けた。別に無理してプレーする必要はない、サポートする側に回ったっていいじゃないかと。
3年生の間怪我人として外から見ていた間に得たものは確かにあったと思う。しかしつまらなかった。寒い日も見ているだけ、練習の合間にドリンクを渡す、みんなのフィットネスの準備にコーンを並べる。自分の存在意義は何なんだろう、いる意味があるのか、と思えて仕方なかった。仮にこの時点でサポートする側に回ったとすれば、6年生で引退するまで約三年間もそんな状態が続くことになる。
36期の和田さんや37期の芹沢さんは途中からサポート側に回って頑張ってくれていた。非常に助かったし、尊敬した。
でも自分には無理だ、そう感じた。
「ラグビーをやるか、出来ないなら部活を辞める」
散々悩んだ結果、薬でなんとか痛みを和らげ、騙し騙しやろうと決めた。
5年生、責任学年になった。正直肩はボロボロになっていた。
医師から
「ラグビーをやめるか、人間をやめるかどっちかにしろ」
こう言われた。
当時バックスリーダーだった自分は、自分がやらないのにバックスを率いることなんて出来ないと思った。なんとか今年だけ、責任学年の間だけはやらせてくれと担当医に懇願した。
ボルタレンの量は1日に10錠を超えた。よく血を吐くようになった。
痛みは増すばかりで、練習中も苦しくて仕方なかった。練習の合間には先生方からのアドバイスがあるが、肩の痛みをこらえるのに精一杯でとても聞いていられる状態ではなかった。
練習が終わるたび、シャワー室で涙を流した。周りには大丈夫だから、と言っていたが、全然大丈夫なんかじゃなかった。
シーズン中はアタックでも肩が外れるようになり、注射を打ってもらった。
そして迎えた5年生シーズン最終戦。昭和戦。
肩も限界に来ていた僕は、ここでプレーをやめようと考えていた。残り三年ある状態でのサポートなら辛かったが、6年生の間だけのサポートなら耐えられるだろう。人生最後の60分、死ぬ気でやろうと。
結果は7-10で敗北。全然良くなかった。結果的には準優勝となったものの、打ち上げでも全く喜べなかった。
ここでプレーを止めることは出来なかった。
6年生、こう言われた。
「医者になるんじゃないのか、君は。何になりたいんだ。幹部候補生学校のことを考えても夏休み中に手術しないとタイミングはない。」
寝ていても脱臼する、自転車に乗っても脱臼する。日常生活に支障をきたしているため、手術が勧められる。
ここまでかと思った。脱臼を防ぐためにあらゆる手を尽くしたがどれも大した効果はなかった。
そんな時今年から防衛医科大学校に着任、ラグビー部のコーチをしてくださっている今田先生にダメ元で聞いてみたのが良かった。近鉄ライナーズの知り合いに聞いてくださったテーピング方法が物凄く効いた。今までも数々のテーピングを試してみたが、どれもイマイチだったにもかかわらず。
普段は照れくさくて言えないが、もし今田先生がいなければ、こうして6年生のシーズンを戦うことは出来なかった。いつも練習前にテーピングをしてくださっている今田先生に心から感謝したい。自分が学生の内に出会う事が出来て本当に良かった。
同期の仲も良くなった。あんなに飯に行くことすら拒絶していた同期と毎週行くようになった。3人で草津旅行をするまでの仲になった。昔はラグビー部で一番仲が悪い期と言われるほどだったが、今では一番仲が良い期だと胸を張って言える。一生付き合っていくことになる友人だろう。この期、この3人で良かった。
ラグビー部での六年間は自分を何倍にも成長させてくれた。
怪我をしてでも無理にやることが美徳だとは思わない。しかし六年間続けてきた今だから言えることがある。
「あとでやらなかったことを後悔するくらいなら今を全力でやれ」と。
もし、今一年生に戻れるとしたらどこの部活を選ぶかと言われても、もう一度ラグビー部を選ぶだろう。
六年間ラグビーをやってきて、本当に良かった。
あと一戦。
各々には胸に秘めた想いがあるはずだ。
ここで負けてしまっては最後の一年無理にプレーを続けた意味がない。
肩や手の痺れも酷くなってきているのは確かだ。力が入らない、そんなことがよくある。
でも、最後の60分間だけは。
六年間で学んだこと全てを出しきったプレーがしたい。
敵に強力なタテを差し込んでやりたい。
やりきった、そう心から言いたい。
最後まで走り抜いて
勝利を勝ち取りたい。
最高の涙を流せるように。
一年生のはじめ、水泳部に入部した。部活決定直前までラグビー部と悩んだのだが、ラグビー部は休みがない、厳しい、といった声も多く、最終的に経験のある水泳を選んだ。
ところが、水泳部に決まった後も隣の部屋の先輩はラグビーの勧誘をしに来た。本当に水泳部で良かったのか、ラグビー部の雰囲気の方が好きなんじゃないのかと自問自答していた自分は、ラグビー部の勧誘の必死さに圧倒され、水泳を1週間もやることなく転部していた。
こうして僕のラグビー人生は始まったわけであるが、ラグビーはそんなに容易いスポーツではなかった。タックルバッグは臭いし、自分より大きな先輩には簡単に当たり負けてしまう。常に体のどこかは痛い状態だった。毎日泥だらけになったジャージを手洗いしないと洗濯機にすらかけられない。さらに雑用その他仕事の大半は一年生に任せられることになる。
同期は自分を含めて3人だけだったため、一人当たりの仕事量は必然的に増える。押し付け合いにもなり、喧嘩ばかりした。正直、同期のことが嫌で仕方なかった。同期で飯に行くことなど滅多になかった。部活以外ではほとんど話さないし、むしろ水泳部の同期の方が仲が良く、なぜ転部なんてしまったんだろうかと後悔した。練習も毎日ハードで、休みも全然ない。自分を誘った先輩を恨んだりもした。毎日、いつこの部活を辞めてやろうか、そんなことばかり考えていた。
2年生の中頃、ずっと傷んでいる肩を見てもらいに病院へ行った。どこかが痛い、というのはラグビーにとっては当たり前で、「どうせ打撲か何かだろう、湿布を処方してもらおう」くらいに考えていた。
医師から言われたのは右肩関節反復性脱臼だった。名前の通り、繰り返し肩の脱臼をしてしまうものである。自分は関節がもともと緩いらしい。体が柔らかいのは良いことだが、関節が緩いと可動域が多い分、動いてはいけない角度まで動くことも多く、ラグビーなど激しいコンタクトスポーツをしていると怪我が多くなるそうだ。実際肩の骨が欠けており、例えるならゴルフボール(上腕骨頭)を乗せているティー(肩甲骨側)の外縁が欠けているような感じだ。肩の不安定感があり、ぶつけるたび激痛が走っていたのはこのせいだった。
このままラグビーをしたいなら手術しないと厳しいよ、親ともじっくり話して決断してね、と言われた。正直どうしたらいいかわからなかった。ただラグビーにも少しずつ慣れてきた時のことでもあり、とりあえず手術はした方が良さそうだ、そう思った。
肩の手術は完治に時間がかかり、ラグビーの試合に出られるレベルまで戻すのには1年弱かかる。2年生の終わりに手術を行ったため、3年生の間は怪我人としてサポートに徹することとなった。練習などをグラウンドの外から見ることも多く、実際にプレーしていては気付けないようなことにも目が行き、そこをああしたらいいのに、と考えたりも出来る様になった。それまではラグビーをこなすことで精一杯だった自分にとって非常に新鮮だった。ラグビーってこんなに面白いんだ、自分が復帰したらあんなプレーがしたいな、なんてことをよく考えていた。
3年生の終わり、およそ1年ぶりに出た試合が追いコン試合だった。思い描いている様なプレーはできなかったが、久々に試合ができてとても楽しかった。
これから本格的に頑張ろうと思っていた。
練習も全部できる様になり、タックルの練習も始めた頃のことだった。
「左肩も痛い」
右肩の手術をする際、左肩も少し痛むことは伝えていた。ただ右に比べれば損傷も少ない上、両肩を同時に手術することはできないこともあって、様子を見ていた。しかし、手術後は右肩をかばい、左肩メインでタックルしていたこともあったのだろう、復帰から1ヶ月もしない時点で左肩は右肩以上の損傷となっていた。
4年生になる時、
「ラグビーをやめなさい」
医師からそう言われた。
これから思う存分ラグビーできる、そう思った矢先だった。
ここで左肩を手術するとまた一年間ラグビーができなくなる。非常に残酷だった。この頃には安静にしていても肩は痛むようになり、タックルに行くとほぼ100%の確率で肩が外れるようになっていた。まるでそこにあると分かっていながら剣山を踏みに行くような感覚だ。
ある日の練習の途中、グラウンドの外で指導してくださっている益子先生の元へ行き、膝に手をつき泣いた。
「もう限界です」
悔しかった。同期は試合に出て頑張っているというのに、自分はラグビーをすることすらままならない。情けなくて仕方なかった。
それから二日間ほど練習には行かず、体育教官室で益子先生と話し続けた。別に無理してプレーする必要はない、サポートする側に回ったっていいじゃないかと。
3年生の間怪我人として外から見ていた間に得たものは確かにあったと思う。しかしつまらなかった。寒い日も見ているだけ、練習の合間にドリンクを渡す、みんなのフィットネスの準備にコーンを並べる。自分の存在意義は何なんだろう、いる意味があるのか、と思えて仕方なかった。仮にこの時点でサポートする側に回ったとすれば、6年生で引退するまで約三年間もそんな状態が続くことになる。
36期の和田さんや37期の芹沢さんは途中からサポート側に回って頑張ってくれていた。非常に助かったし、尊敬した。
でも自分には無理だ、そう感じた。
「ラグビーをやるか、出来ないなら部活を辞める」
散々悩んだ結果、薬でなんとか痛みを和らげ、騙し騙しやろうと決めた。
5年生、責任学年になった。正直肩はボロボロになっていた。
医師から
「ラグビーをやめるか、人間をやめるかどっちかにしろ」
こう言われた。
当時バックスリーダーだった自分は、自分がやらないのにバックスを率いることなんて出来ないと思った。なんとか今年だけ、責任学年の間だけはやらせてくれと担当医に懇願した。
ボルタレンの量は1日に10錠を超えた。よく血を吐くようになった。
痛みは増すばかりで、練習中も苦しくて仕方なかった。練習の合間には先生方からのアドバイスがあるが、肩の痛みをこらえるのに精一杯でとても聞いていられる状態ではなかった。
練習が終わるたび、シャワー室で涙を流した。周りには大丈夫だから、と言っていたが、全然大丈夫なんかじゃなかった。
シーズン中はアタックでも肩が外れるようになり、注射を打ってもらった。
そして迎えた5年生シーズン最終戦。昭和戦。
肩も限界に来ていた僕は、ここでプレーをやめようと考えていた。残り三年ある状態でのサポートなら辛かったが、6年生の間だけのサポートなら耐えられるだろう。人生最後の60分、死ぬ気でやろうと。
結果は7-10で敗北。全然良くなかった。結果的には準優勝となったものの、打ち上げでも全く喜べなかった。
ここでプレーを止めることは出来なかった。
6年生、こう言われた。
「医者になるんじゃないのか、君は。何になりたいんだ。幹部候補生学校のことを考えても夏休み中に手術しないとタイミングはない。」
寝ていても脱臼する、自転車に乗っても脱臼する。日常生活に支障をきたしているため、手術が勧められる。
ここまでかと思った。脱臼を防ぐためにあらゆる手を尽くしたがどれも大した効果はなかった。
そんな時今年から防衛医科大学校に着任、ラグビー部のコーチをしてくださっている今田先生にダメ元で聞いてみたのが良かった。近鉄ライナーズの知り合いに聞いてくださったテーピング方法が物凄く効いた。今までも数々のテーピングを試してみたが、どれもイマイチだったにもかかわらず。
普段は照れくさくて言えないが、もし今田先生がいなければ、こうして6年生のシーズンを戦うことは出来なかった。いつも練習前にテーピングをしてくださっている今田先生に心から感謝したい。自分が学生の内に出会う事が出来て本当に良かった。
同期の仲も良くなった。あんなに飯に行くことすら拒絶していた同期と毎週行くようになった。3人で草津旅行をするまでの仲になった。昔はラグビー部で一番仲が悪い期と言われるほどだったが、今では一番仲が良い期だと胸を張って言える。一生付き合っていくことになる友人だろう。この期、この3人で良かった。
ラグビー部での六年間は自分を何倍にも成長させてくれた。
怪我をしてでも無理にやることが美徳だとは思わない。しかし六年間続けてきた今だから言えることがある。
「あとでやらなかったことを後悔するくらいなら今を全力でやれ」と。
もし、今一年生に戻れるとしたらどこの部活を選ぶかと言われても、もう一度ラグビー部を選ぶだろう。
六年間ラグビーをやってきて、本当に良かった。
あと一戦。
各々には胸に秘めた想いがあるはずだ。
ここで負けてしまっては最後の一年無理にプレーを続けた意味がない。
肩や手の痺れも酷くなってきているのは確かだ。力が入らない、そんなことがよくある。
でも、最後の60分間だけは。
六年間で学んだこと全てを出しきったプレーがしたい。
敵に強力なタテを差し込んでやりたい。
やりきった、そう心から言いたい。
最後まで走り抜いて
勝利を勝ち取りたい。
最高の涙を流せるように。
Change our mind
投稿日時:2016/11/18(金) 07:17
監督から主将はブログかかないの?と言われ、今田先生からは湯浅の日々雑感はないの?と圧力をかけられたので久々に書きます。前回のログインは2015/07/09(木)だそうです。一年半も前なんですね・・・。
シーズンも三試合が終了し、4連戦のうちの2戦が終了しました。シーズンも終盤を迎えました。
先日の筑波戦ではOBの先生をはじめ、たくさんの応援ありがとうございました。
1点差での敗北。主将として防衛医大ラグビー部に申し訳ない気持ちです。昨年の筑波戦の敗戦からこの気持ちは二度と味わいたくないと思い続けていましたが、目の前で全勝優勝を決定づけられる形で再現されてしまい、非常に屈辱でした。
翌日、午前中に今田先生がお忙しい中、今後についての話を聞いてくださるということで体育研究室に向かいました。しかし、全く気持ちの切り替えられていなかった僕は顔を合わせるのも恥ずかしいと思い、体育研究室の前で少し入室を躊躇うほどでした。しかし、広瀬先生と今田先生はいつも通りに会話をしてくださり、話しているうちになんとなくですが切り替えることができました。
とはいっても、他の部員はどうだろうと心配で仕方なかったです。試合後はみんなネガティブな発言しかしてかなったし・・・。しかし、その日中の心配は必要ないくらい、課業後の部会では次の日本大学医学部戦に向けて全員が前向きの姿勢でした。火曜日、水曜日の練習もこの一か月間と同様、非常に良い練習ができています。(そう見えただけかもしれませんが)
防衛医大ラグビー部の「すごい」ところだなと感じました。これだけすぐに気持ちの整理のできる人間の集団、見たことがありません。後輩、同期、先輩方に今回は本当に助けられました。(あと、見に来てくれたラグビー部員以外の先輩や同期をはじめ、結果を聞いて励ましてくれた人たちありがとうございました。)
優勝という夢は果てましたが、腐っていては、この一年間の辛い、しんどい練習をしてきた意味がありません。泣いても笑っても、6年生と一緒にプレーできる時間はあと少しです。5年間お世話になった先輩方を優勝という形で送り出せずに本当に申し訳ないですが、準優勝するために必ず結果を出せるよう努めます。モチベーションという意味では難しいところもありますが、必ず勝って、最後は笑って終わります!
今田先生や橋本先輩の文章に比べると非常に拙い文章になってしまいましたが・・・。これで橋本先輩以外の6年生、そして監督もブログ書いてくれると思います。
次、書くまでに今田先生に文章力もご教授いただきたいと思います。
シーズンも三試合が終了し、4連戦のうちの2戦が終了しました。シーズンも終盤を迎えました。
先日の筑波戦ではOBの先生をはじめ、たくさんの応援ありがとうございました。
1点差での敗北。主将として防衛医大ラグビー部に申し訳ない気持ちです。昨年の筑波戦の敗戦からこの気持ちは二度と味わいたくないと思い続けていましたが、目の前で全勝優勝を決定づけられる形で再現されてしまい、非常に屈辱でした。
翌日、午前中に今田先生がお忙しい中、今後についての話を聞いてくださるということで体育研究室に向かいました。しかし、全く気持ちの切り替えられていなかった僕は顔を合わせるのも恥ずかしいと思い、体育研究室の前で少し入室を躊躇うほどでした。しかし、広瀬先生と今田先生はいつも通りに会話をしてくださり、話しているうちになんとなくですが切り替えることができました。
とはいっても、他の部員はどうだろうと心配で仕方なかったです。試合後はみんなネガティブな発言しかしてかなったし・・・。しかし、その日中の心配は必要ないくらい、課業後の部会では次の日本大学医学部戦に向けて全員が前向きの姿勢でした。火曜日、水曜日の練習もこの一か月間と同様、非常に良い練習ができています。(そう見えただけかもしれませんが)
防衛医大ラグビー部の「すごい」ところだなと感じました。これだけすぐに気持ちの整理のできる人間の集団、見たことがありません。後輩、同期、先輩方に今回は本当に助けられました。(あと、見に来てくれたラグビー部員以外の先輩や同期をはじめ、結果を聞いて励ましてくれた人たちありがとうございました。)
優勝という夢は果てましたが、腐っていては、この一年間の辛い、しんどい練習をしてきた意味がありません。泣いても笑っても、6年生と一緒にプレーできる時間はあと少しです。5年間お世話になった先輩方を優勝という形で送り出せずに本当に申し訳ないですが、準優勝するために必ず結果を出せるよう努めます。モチベーションという意味では難しいところもありますが、必ず勝って、最後は笑って終わります!
今田先生や橋本先輩の文章に比べると非常に拙い文章になってしまいましたが・・・。これで橋本先輩以外の6年生、そして監督もブログ書いてくれると思います。
次、書くまでに今田先生に文章力もご教授いただきたいと思います。
祝二戦目勝利!!
投稿日時:2016/11/08(火) 23:27
こんばんは、杉山です。
ちょうどいいタイミングでリレー日記が回ってきたので
公式戦の結果やら次戦への意気込みを語ろうと考えていました。
が、先生や先輩の記事を見て、断念しました。
ハードルが高すぎるのが悪いんです。
僕の文才が無いのが理由じゃないんです。ええ、一応
かといって、私信を書いても興味ないの一言に尽きるのでラグビー関連のことを書くしかないですよねー
誰ですか、僕の誕生日です!とか書いた櫻井。タイヤでも引いとけ
と、無理矢理つなげましたが、我が防衛医大ラグビー部には
”誕生日タイヤ”なるものがあります。
読んで字の如く、(条件が揃えば)誕生日にタイヤを引きます
誕生日なのに引きます
誕生日なのに
いや、だっておかしいでしょ!?
めでたい日なのに、罰ゲームみたいにタイヤ引くって何で!?
タイヤがプレゼントってどういうこと!?
タイヤ引きなんてものなくなってしまえばいい!
…はい。最後の一文が言いたかっただけです。
…タイヤ引きは死ぬほど嫌いです。
深夜テンションにまかせて書くとロクな内容になりませんね
では次はタイヤ引き好きな丹原くんに回したいと思います。
ちょうどいいタイミングでリレー日記が回ってきたので
公式戦の結果やら次戦への意気込みを語ろうと考えていました。
が、先生や先輩の記事を見て、断念しました。
ハードルが高すぎるのが悪いんです。
僕の文才が無いのが理由じゃないんです。ええ、一応
かといって、私信を書いても興味ないの一言に尽きるのでラグビー関連のことを書くしかないですよねー
誰ですか、僕の誕生日です!とか書いた櫻井。タイヤでも引いとけ
と、無理矢理つなげましたが、我が防衛医大ラグビー部には
”誕生日タイヤ”なるものがあります。
読んで字の如く、(条件が揃えば)誕生日にタイヤを引きます
誕生日なのに引きます
誕生日なのに
いや、だっておかしいでしょ!?
めでたい日なのに、罰ゲームみたいにタイヤ引くって何で!?
タイヤがプレゼントってどういうこと!?
タイヤ引きなんてものなくなってしまえばいい!
…はい。最後の一文が言いたかっただけです。
…タイヤ引きは死ぬほど嫌いです。
深夜テンションにまかせて書くとロクな内容になりませんね
では次はタイヤ引き好きな丹原くんに回したいと思います。
よきかなよきかな
投稿日時:2016/11/03(木) 23:31
お久しぶりです!
実に約5か月ぶりの投稿です。
最近めっきり寒くなり、冬用のコートを着なければ夜は出かけられなくなってきましたね。
そんな季節ですが僕には心温まる出来事がありました!
ほんの3週間ほど前のことになります。
ついに彼女ができました!!
そして今日11月3日は、僕の誕生日です!!
おめでとうございます!
さて、話は変わりますがラグビー部の近況を書いていきたいと思います。
もう何人もの人が書いていますが、11月は全ての日曜日に試合が入っています。僕自身、試合に出られるかはまだ分かりませんが、ラグビー部全体としてはハードな練習を乗り越えてFW、BKともにいい仕上がりになっていると思います。
しかしそれだけでは試合に勝つことはできません。今僕が声を大にして言いたいことは、健康管理をしっかりしようということです。はい、というわけで皆さん手洗い、うがいはきちんとしましょうね。
久しぶりに書いたので分量が適当かどうかわかりませんが、以上で筆をおかせていただきます。
では次は、すでにクリスマスの予定が入っている杉山君、よろしくお願いします!
実に約5か月ぶりの投稿です。
最近めっきり寒くなり、冬用のコートを着なければ夜は出かけられなくなってきましたね。
そんな季節ですが僕には心温まる出来事がありました!
ほんの3週間ほど前のことになります。
ついに彼女ができました!!
そして今日11月3日は、僕の誕生日です!!
おめでとうございます!
さて、話は変わりますがラグビー部の近況を書いていきたいと思います。
もう何人もの人が書いていますが、11月は全ての日曜日に試合が入っています。僕自身、試合に出られるかはまだ分かりませんが、ラグビー部全体としてはハードな練習を乗り越えてFW、BKともにいい仕上がりになっていると思います。
しかしそれだけでは試合に勝つことはできません。今僕が声を大にして言いたいことは、健康管理をしっかりしようということです。はい、というわけで皆さん手洗い、うがいはきちんとしましょうね。
久しぶりに書いたので分量が適当かどうかわかりませんが、以上で筆をおかせていただきます。
では次は、すでにクリスマスの予定が入っている杉山君、よろしくお願いします!